新・月下独酌



平泉博士のこと



ふとしたきっかけで、平泉澄(きよし)博士の著作に触れることがあった。

おそらく、今の子どもたちは平泉博士の名を知るまい。
否、大人ですら下手をすると平泉澄を「ひらいずみわたる」と呼びかねない。





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博士は、明治28(1895)年に平泉寺白山神社の家に生まれた。

大正7(1918)年、東京帝国大学文科大学国史学科を卒業し、大正12(1923)年には東京帝国大学講師となり同15 (1926)年には助教授となる。

昭和5(1930)年には1年間欧州に留学。この頃は、大学教授候補が渡欧する慣習があったそうだ。

昭和10(1935)年に東京帝国大学教授となる。昭和20(1945)年、敗戦後すぐに大学を辞職し、故郷の平泉寺白山神社の宮司となり晩年を過ごされた。昭和59(1984)年死去。

上記の写真は、昭和43年のものである。



博士の名を良くも悪くも決定付けたのは「皇国史観」である。自由主義者、民主主義者から見れば戦争を美化する思想の最たるものであっただろう。博士は、戦争が終わった時点で自ら職を辞し勝山に戻られた。おそらく自らが受けねばならぬ「何か」を直観的に見抜いておられたのかもしれない。

ちなみに、平泉渉元衆議院議員が博士の末子であることは言うを待たない。博士のご子息のうち、長男は勝山高校で歴史を教えられ、後に金沢工業大学の教授になられた。ちなみに、この方のご長男も金沢工業大学の教授である。先の衆議院選挙の時にお会いしたことがある。








案外と知られていないことだが、博士はE.バークの紹介者でもあった。

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保守主義という政治思想は、革新主義と双生児のごとくに誕生した。

その双生児の母胎はフランス革命であった。この革命はフランスに革新主義を誕生させると同時に、イギリスに保守主義を生じさせた。その保守主義的政治家の始祖がE.バークである。


バークは明治期に金子堅太郎により日本に紹介される。

夏目漱石は、その講演録の中で「バークほどわからぬ思想家はいない」と嘆じた。
無論、漱石ほどの碩学がバークを読めなかったわけではあるまい。漱石自身がバークの著作から引いたとしか思えぬような文明論をしたためていることからもそれは明らかだ。


もっとも、漱石が嘆じたように、バークの思想は世に受け入れられにくかったのだろうか。
一旦、バークの思想は下火になり、平泉博士の労によって再び脚光を浴びることになる。





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平泉博士の『先哲を仰ぐ』には、橋本景岳(左内)や真紀和泉守(保臣)、吉田松陰等に対する論説があるが、そこに『革命とバーク』と題する1節がある。

この扱いを見れば、博士の中でバークが大きな位置を占めていたことは想像に難くない。









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そして、平泉博士が言論界から抹殺されるに及んで、バークの思想も永い眠りに入ることになった。岩波文庫からバークの代表作である『フランス革命の省察』が出版されたのは21世紀に入ってからだ。





当時、バークの著作を読んでいた私は、その縁で平泉博士にぶち当たったのだった。


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by harukado-ruri | 2006-06-21 17:11 | 本の話
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