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新・月下独酌



平泉博士のこと(後)


バークを通じて平泉博士にぶち当たった頃、私の中で博士に対するイメージは通俗どおりの「ゴリゴリの皇国史観の親玉」であった。

天皇陛下を天壌無窮の存在として捉えるだけの、神学とも呼ぶべき歴史学。その総帥としてのイメージである。


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そんな頃、気紛れに読んでみるのも面白かろうと、この本を手にした。

この『物語 日本史』は少年少女向けに書かれたものである。ただ、語り口こそ子供向けであるものの、内容の高度さに正直なところ驚いた。

「明治維新は、古い封建制度からの脱却であり、いわば一種の革命である。そこから日本の近代が始まる」という史観がある。私もこの史観に馴染んでいた。

「そのような史観は、所詮は後付けの歴史観でしかない。現実に維新をくぐっていた人々は、我々が言うような革命をしているつもりはなかったはずだ。ならば、そのような史観が往時の彼らの行為を説明できるはずがないではないか」
本書はこれを気づかせてくれるものだった。








平泉博士のこと(後)_b0104829_16575847.jpg

そして、最近、この書を手に入れた。

丸山眞男と平泉澄を並べたところに、作者の慧眼がある。
著者自身が、冒頭で述べているように、この二人は思想的に全く対照的な位置にあるからだ。




丸山眞男を読む人は平泉澄を読まず、平泉澄を読む人は丸山眞男を読まない。その二人を本書に論じるのは、あるいは読者にとって、唐突の感があるかもしれない。それほどまでに二人は、その思想において対極的だからである。

  (はしがきより)



この書で、なぜ平泉博士は歴史学を神学にまで高める必要性に駆られたのかが、わかったような気がする。

明治期の日本は、西欧より様々なものを貪ったが、最後まで皿の上に乗らなかったのが『神学』であった。



他方で、この『神学』を克服することで西欧の近代思想は始まったといえる。



事実、ドイツ観念論の集大成として知られるヘーゲルも、その出発点を神学に負っている。

『神学』とは何であろうか。それは神という絶対なる存在者を通して世界を把握する手法であろう。その神に代わるものは何か。そして、神の代価物によって世界を認識することは可能なのか。
 信仰とは、全人格的なものである。全人格的ということは、ひとりの人の中において結実し完成されねばならない。そういった神への信仰の基礎である『神学』に代わるものは、やはりひとりの人の中において世界を結実するものでなくてはならない。

ヘーゲルの『個人―社会―国家』のプロセスは、このような下敷きがあったのではないかと私は考える。



西欧より『神学』を輸入しなかった日本の精神的強靭さは、理性をぶつける相手を持たなかった。西欧人が『神学』に立ち向かうことによって己の理性を強固なものにしていったのに対し、日本人は理性の産物のみを導入した。

理性は自生するものではない。日本人のそのような態度の内に、確固たる理性が発生するはずもなかった。ましてや、西欧知識人が悩んだ「信仰と理性の葛藤」に苦しむ人は少なかったことだろう。

平泉博士が「歴史とは全人格的なもの」と述べ、自らの史学を神学にまで高めようとしたのは、この葛藤そのものの克服を日本において独自に解決しようとされたのかもしれない。


ぜひ、勝山の人にこそ読んでいただきたい1冊である。



by harukado-ruri | 2006-06-22 23:36
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